一度その夢が忘れ去られたのは、ウェスカーの這う指たちが、ある一点で留まり、定めたかのように動かなかったからだ。 瞳を見抜くことはできなかった、いや、出来たことなど一度もなかったが、その一枚の黒い隔たりがなかったとしても、 何をする事も出来ないのは確かであろう。事実として今、こうして目の前にいる男は、最早俺の知らない人間だ。 ―――尤も、人間ですらないのであったら、可笑しいくらいに皮肉なものなのだが。
「…随分と深い、まあここだけだが、出血を止めなければ、このまま死ぬだろうな」
「ああ―――たぶんそのくらいは出てると思ったさ…、」
「生憎だが止血剤は持ち合わせてなくてな、それに救急道具なんて物も、」
「何を…今から殺す相手にそんな情けをかける癖でもあるのか…?それとも…簡単に死なれたら恨み辛み晴れきれないか……?」
「―――クッ、クク………そうじゃないな…、そんなに…死を待つ身構えはお前らしくないだろう……」
「何が言いたい…」
「わかるだろう――クリス…何があろうと…審判の時を迎えるまでは…人間は人間でしかない…、たとえこうして人間どもが上りつめたとして…後に残るのは、僅かな栄光を欠片にして、優越と損失だけだ……、消えるべきは小さなその栄光すら持たぬ者…、
だがお前には…その栄光を自ら投げ出し…優越にすら溺れずにいる…お互い最早くだらない人生を謳歌などしてはいない、ここでお前が選択すればいい…、この脚が…このままひき裂かれるのを恐れるのならばな、」
そのとき、言葉の終わりを聞く前に――肉に食い破ろうとするその指の刃に、溢れるように唸りをあげた。 汗がからだの至る所から噴き出してくる、感じた事のない恐怖だ…拷問では無い。これはただの痛みでしかない。 その指たちが…革の上から押し上げる皮膚のまた下で、神経の一本一本たちが悲鳴をあげ軋み揺れている、 ちの流れが止まらずに濁流している、意識が朦朧とし今にも飛びそうな気は、その強制的なる刺激によって何度も打ち伏せられた、
肉の裂け目に――その指が―――!!信じられない!まるで俺が死体のようだ…………!!!
「くそッ――!!殺せ!、お前、の――望み通りになど――ならないッ!!」
「望み?そうとるのならこのままこの脚を肉ごと裂いてやろうか、綺麗に向けるかもしれないぞ―――お前は筋肉の付きが良いからな……」
「ぐッ…あ、ぁああ!!、ぁっ、は、あ”…!!…ウェ…ス、カ………ッ!!」
開いてゆく――!自分の身からその肉たちが放されそうになり、叫ぶようにクリスの脳へと痛みだけを訴え続けた。
死ぬだろう――恐らく、こいつは今ここで俺を殺す気なのだ…膝から離れ形をなくしかけた脹脛のその血肉らしきものをみながらに――
確信した。血まみれのこの地獄で俺に悲願させることを望み、そして拒絶し――この脚を引き千切り嘲笑うのだ…、
わかっている。僅かな悲願すらを見せてしまえば、やつはその…生きたいという自分の心をただ踏みつけ破りたいだけだ。
死を待っている―――俺がその絶望で叫び吠える一時に、この生を断ち切りたいと…やつはずっと俺を待っている――。
「…言う訳がない………」
「………なんだと、」
「………なんだウェスカー、長年俺の上にいたくせに…わからないか…」
「…、いつまでも政治や国に傅くのが生きがいか……」
「どうでもいいさ……俺が死んだって…この世界は変わりはしない……」
そうして瞼を下ろしてしまえば、最早この先には痛みだろうが死であろうが、なんらかわりはない物に思えてきた…
今はもう、誰かが助けに来る考えは忘れたほうが気が楽だ、そしてこのまま、痛みだけを待ち続けるのも己の運命の末路……
昔からきっとそうだった、お前の下へ着いた時から、俺は世界をどうする事も出来ない人間にすぎなかった。
自分の事すらそうやってわからないままに生きていたのだ、お前の事など――わかるわけがなかった。
だが――、ただ一片に据える鼓動の末路、血に飢えていないという言葉通りに、死に快楽を同じにしないお前を、 どうやってこれ以上に近づけばよかったのだろう。
きっと、お互いに届くわけがないことぐらい、わかっていたはずだ。
相入れないのではない、ただお互いがともに生きていくには世界は浅はか過ぎた、現実が地獄へ向かうたびに、愚かしい夢のかけらに悩む小人のよう、 上手く歩き出せなくなる。我慢や屈服など役に立たない、生きてすらいけない違い。 だから、こうしてこの場で殺されてしまうのならば、それでいい。 何度だって触れてきたその掌に、殺意や恨みの念をぶつけられようが、後悔することはない。 この闇に助けられればいい、黒幕を閉ざされ、お前の憎しみにただ立ち向かっていった馬鹿でいい。 止めることなど一度もできなかったのだから、裏切るなど考えたくもなかったから。 さあ―――殺してくれ、終わりにしよう。幾月も重ねた尾の噛み合いを、世界の破滅など見たくない。
「――お前はきっと、まだわかってない………」
ああ、そうだろう、お前にはいつも馬鹿だと笑われていたからな…、
きっと、ここで簡単に死を認めるなんて…下らなすぎてウェスカーもおかしいだろう…。
「…ウェスカー………」
「いずれ…………教えてやるさ…」
風が吹いたかのように、傷口が冷たく冷えて、血の流れすら止まった気がした、けれど瞳はいつまでも閉じたままで、
わざわざ確認しようという事すらやるせなくて、そのままにした。
微かに動く音が聞こえる。止めでも指すのだろうか、暗い所で眼を閉じると、本当に何もわからなくなる。
視界の意を含めているが、それは感覚的な意味でもあった。嗅覚は血と溢れ出す鉄の匂いと、縮んでおびえた神経が邪魔をする。
触角だって同じだ、ずっと痛みだけがサイレンのように鳴り響いている。どこが痛くないのかなんてわからなかった。
ただ、耳の奥で音を捕えているのだけを頼りに、考えた。
最後に…、どうやって殺されるだろう…、お前に、心臓を貫かれるのも…悪くない。
罵倒の一つでも吐き出してやれば、きっと少しは悔しがるだろうとも思ったが、そんな喉は遥か昔に亡くなった、
擦れただれた咽喉のまわりには汗の塩辛い感触だけがこびりついて鎮座している。
脚が動く音がした、髪に触れる何かがわからない。
ゆっくり足から離れる掌が、まるでスローに消えて逝く走馬灯のようだった。
擦れてゆく、
喉や頬ののわずかな血たちが、
途切れてゆく、
最後に残されていた音や匂いたちが、
まどろみに…消えて、その世界が静かに音をなくすとき……
似たような、柔らかくないその感触が、

唇に、触れた。








(20090420)